2012/02/28

忘れぬうちに


昨日布団に入ってから、ひらめきが続いて一時間半くらい寝れなくなった。

定年後の団塊世代の余りあるお金をどうやって若者に分配するか。
年金をさっぴくのってきっと難しいんだろうな。
既得権益はいつの時代もどんな人も離したがらない。
それに、年金加入の時に、払いますという契約を交わしてる訳だからね。

そこで思いついた。
今流行りの「社会的投資」
これを彼らにやってもらおうじゃないかと。

社会的投資とか、社会的企業とか、ソーシャルビジネスとかって比較的若い世代がやってる場合が多いと思うんだよね。でも、その事業の担い手が若者であるのはいいんだけど、そのベンチャー的(つまり採算不安定)ビジネスに誰が投資融資をするのか、って結構問題だと思うの。

若者が元本一人で集めるのって相当大変だし、かといって普通の企業はリスク負いたくない訳じゃない。いくら社会的によいことだとしてもね。

そこに補助金や助成金を、とかいったって今の国の財政状況みればそんなの明らかに無理。
一方で、社会には「お金は余っている」 という人がいる。
…どこに?
定年まで仕事があった団塊世代じゃないでしょうか。ね。

彼らが持ってる時間とお金をいわゆる「いいこと」に投資してもらうの。
期待できるリターンはお金じゃなくて「いいこと」
実際的な社会効果って意味と彼らが「いいこと」をしたという称号。
いいと思うなあ。

それに彼らって、きっと「投資」に対する理解があると思うんだよね。
垣根が少ないというか。
それに、定年後投資に興味ある人が結構いる。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/dankai/061130_sakiyuki2/

そのために何ができるか?
ソーシャルビジネスを集め、団塊世代投資家を集め、
ポータルサイトつくってマッチングさせたりコンサル的要素も含む。

これは、多分早くやり始めないといけないことな気がする。
だって他に誰かが思いつきそうだから。笑
もういるかもしれないけどね。

まあでも結局なにがしたいかっていったら、
同世代の人たちにも笑って生活を送って欲しいということ。
大学にいってなくても、ね。

うちの友達はやっぱり大学生が多いんだ。
でも、数少ない大学生をやってない友達は、
揃いも揃って現状に満足いってない。

大学行ってればな…
って口走ったのを何回聞いたかな?

今大学進学率50%くらいでしょ?
もし同世代の半分がこうだったら凄く悲しい。
そういう中で自分だけ楽しさを求めても悲しい。
それが原点です。

2012/02/19

stop for



やっぱりやっぱりずっと追われてる。
目の前の課題、テスト、成績、就活、、、
それは例えば他に部活とか没頭してしまうものがあれば、そっちのけられるくらいのものだとも思えるくらいのことなのに。

大学に入って自分自身の人生の中でこれでもかって程勉強を続けてて、それで得たものも実感してる。し、それによる弊害とかへの嫌悪もあまりない。

けど、その勉強の先に考えていることが、「自分が何をしたいか」じゃないんだろうなあと最近ぼんやり思う。勉強し続けていく中で、色んな事を知って、結果的に自分がやりたいことを見つけるってことは沢山ある。

でも、何のために勉強してるのか?その答えは、一つはある。社会に対してのね。でも、自分にとって、何の為に勉強してるのか?それははっきりとは答えられないし、多分あんまり考えてもいないと思う。

自分が幸せであることに責任を持つ。
ワタミの社長が言ってた言葉ですごい納得したこと。

でも、それと同時にじゃあ自分はそれで何がしたいのか?
それをあまりにも考えていないんじゃないか、と自分にびっくりする。

「自分は何がしたいのか?」
それはそう簡単にでる答えでないことはきっとみんな知ってる。
きっとヒントは既にもう自分の中にある。
だけど、答えは見いだせていないまま。
その答えを引き出すためには、柵から解放されタスクを手放し、自由にぼんやりと考える時間が必要だと思う。
完璧に手放す必要はない。
そういう時間を作ればいいだけ。日常的に。
それと同時にオーバーワークで刺激を受けるからこそ見えてくることもあるし、結果それが自分のやりたいことを発見するきっかけになるってことは大いにある。と思う。

けど、今はどっちつかず、って感じかな。

オーバーワークでやってるようなこともないけど、
かといって毎日毎日降ってくるタスクを一時停止させて自分のことを考える時間も作れてない。

でも、いまこうして書いていて自分のことが少しわかってきた。


多分私には、オーバーワークと無の時間を繰り返していくことが大事なのかも
現時点とこれからでそのタイムスパンをどうするかはだいぶ違ってくるのだろうけど。

最近気になっているサイトとかで取り上げられてる人たちは、
「生きるように働く」とか「仕事とプライベートの境目がない」人たち。
それもすごい。
自分もいつかそうなれたら。
そうは思う。


でも、今は自分が何をしたいのか、どうしたらいきいきしていられるのか、それが掴めてない。そんな時に、ずっと働ける環境を求めていくと、何かがいつか狂いそう。

向かう矢印の方向が最初はたった1°の違いかもしれない。けど、時々立ち止まって、ぐるーーんて周り見渡して、もし「これは違うな」って思ったら修正してかなきゃいけない。道を間違えるのはアリ。全然アリ。でも、それに気づきすらしないで、ノンストップで進み続けたら、のちのち自分は何がしたかったんだっけ?って分からなくなって、結局またタスクをこなすだけの日々になっちゃいそう。そうなりたくない。


「自分はこれだ」と思うものが見つかったら、
「生きるように働きたい」。
それは凄く凄く幸せなことだと思うから。

でも、それを見つけるまで。
オーバーワークをしては、時々立ち止まる、勇気を 、持とう。
世の中にはスゴイ人沢山いる。スゴイ大学生も沢山いる。
しかももう就活開始まで一年ない。かもしれない。
けど、まだ一年弱はある。
走り出すために立ち止まらなきゃいけない時。

立ち止まっても、誰も何も文句いわないし、食うのに困ることもない。

ここで立ち止まらなきゃ。

2012/02/15

present

しょーこに触発され?今更ながらsteve jobsのスピーチをみた。
多分今までにどこかで誰かに何度も言われてたことだと思うけど、
今この身分になって改めて考えるとこれまた昔とは全然違うよね。

「未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。」


就活のこととか具体的に考え始めて、自分がどれだけ未来に対して「計算」しようとしているかを考えた。そもそも試算すらできないけど。でも、それ自体に意味がないのかもしれないって思い始めた。

過去のバラバラの点を信じること、それはできる。
幸運なことに、出来る自信がある。
そこで余計な打算をしなくても良いのかもしれない。
そう思った時に少し肩の荷が下りた気がした。




「すばらしい仕事をするには、自分のやっていることを好きにならなくてはいけない。まだそれをみつけていないのなら、探すのをやめてはいけない。安住してはいけない。」

「その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。」

「「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。」
 
「 なぜなら、ほとんどのこと…外部からの期待、己のプライド、恥ずかしさや失敗に対する恐怖…こういったものは死に直面すると、ただ消えていきます。そして本当に大事なことだけが残ります。」


最近、今死んだら後悔するって思うことがある。
でも、それを行動に移すには時間が欲しい。
はっきり言えば、時間、時の流れに甘えてる。


でも、最悪な事に、今その相手が死んだらそれも同じ後悔を生む。
そしてそれは本当にそう遠い話じゃないと思う。
「たった2年」で起きたことと同じ。


だとしたら、時間に甘えてられない。
人にも甘えてられない。


お互い余裕がなさ過ぎて最後まで伝えられなかったこと。
未だに伝えられないこと。


伝えなきゃいけない。


トラウマなんて言葉を理由にはできないのだろう。
トラウマと後悔を天秤にかけるようなこともしたくない。

そして、「死ぬ」ってことを言い訳にしたくない。
ちょっと卑怯。
死ぬ直前だからこそ言えることかもしれないけど、
それをもっと前に言っていたら?
その方が良いに決まってる。
なのになぜ言えない?伝えられない?

それはイベントもそうかもしれない。
誕生日だけ、記念日だけ、愛してる。訳じゃないよね。
イベントは伝えるきっかけ。
だけど本当はいつも愛してたいし、いつもそれを伝えたいよね。
「愛してる」というストレートな言葉を使うかは別としてさ。

人生はイベントづくしだけど、でも、イベントだけじゃないし、単発イベントでもない。
日々毎日毎日が繋がってる。

だとしたら、もっと「今」にこだわっていいんじゃないかな。

将来将来…って追い求めてばかりなのは、走らされてるんだろうね。

自分で走らなきゃ。目的地がなくてもいい。自分の身体で走んなきゃね。自分の好きな道を。

2012/02/12

ditz



世の中の若者は
「将来の為に今何かを我慢して頑張っても仕方ないから今を楽しむ」という考え方からか、現在の生活に対する満足度って結構高いらしい。


納得納得。


今は満足。(将来は不安だけど。)みたいな?

なんかすごい納得したんだよね。

多分大人もそういう若者に対して「行き当たりばったりな生き方をして…」みたいな批判は出来ないんだろうね。だって、姿勢を改めるかどうかは別として、そろそろ若者に負担を強いていることは分かってきてるみたいだから。単にそう若者批判をしてる人がいたらそれこそひくわ。若者がそういう考えに至ってしまわざるを得ない状況に頭を悩ませてほしいものだよ。


本題はここからなんだけど、
この話をしてて
いよいよ自分は変わり者なんじゃないかと思ってきたんだよね。
特に最近の自分に関して。良くも悪くも。

自分がこの大学に通ってること=安定した家庭で金がかかる大学に行ってるってこと 。
いわゆる「女子大生」でありながら目の前の楽しいを追い求めることに疲れたこと。



とは言っても、大学1年の頃までは、私も紛れもなくいかに自分が楽しむかを重視してた人間だったと思うんだけど。

そしてこの考えが、就活をあと一年後とかに控えたってことだけが理由だとも思わないんだよね。




ここ何年かでまあ色んな出来事が身に起こり、色んな人たちに会い、自分はこの陰に隠れて泣いている友人たちをどうにか出来ないものだろうかと本気で思い始めたんだ。

高校〜大学でずっと感じてた自分を取り巻く人間の「普通」の狭さ。
自分たちの眼に映る「常識」の小ささ。

日本に限ったて自分の目の前にある生活とは程遠い暮らしをしてる人がいる


そして大概そういう人たちには「安心感」というものが、ない。

そういう友人たちを(偶然だったり意図的だったり)目の前にして、自分が幸せな瞬間を求めたり、自分をどう表現すべきか、なんてことが、途端にとてつもなくくだらないことの様に思えてきたんだ

確かに自分が幸せだと感じたり、生きている意味を実感できないと、人のために何かするとか出来ないのかもしれないけど、もう自分は充分だろう、って。

そういう友人たちを目の前にして、まだ自分が楽しい嬉しいなんてことばかりを求めるのか?そう思えてきたんだよ。


これまでの人生で自分が心から笑ったり、泣ける程嬉しいと思うことがあったり、ありがとうと繰り返し繰り返し伝えたくなるような出来事があって、それがどれだけ自分に生きる意味を与えたかを考えた今だからこそ出来ることだと思うんだよね。


いくら金持ちで両親も安定的に家にいたとしてもそういう経験を出来てなければ、それはやはり自分が幸せだと思える瞬間を追い求めていい。というかそうしないといけないと思う。

でもさ、今の私は、
自分が家を出るまで家庭の心配せずに済んで、
人生楽しい!と思えることがどんなにパワーがあるかを知っていて、
それでいてその環境が一変して頼る場所がない不安も知っていて、
現在は社会にインパクトを与えられるであろうスゴイ教育を受けてる。


こんな条件の人間ってあんまりいないんじゃないかなあ。
だから自分はこんなに有益な人材なんですとアピール出来る程、
実利は伴っていないかもしれない。

けど、こんだけの条件を身に纏った私は、たった今使命感に追われているんです。

自分の友人が少しでも、人生最高!と思えたら、ね、そう思って欲しい、と。



2012/02/04

save



今日は横浜寿町の炊き出しに行ってきたよ。
寿町は関内の駅のすぐ近く。
市役所?などが並ぶエリアのすぐ近く。
ここは日本の三大ドヤ街と言われるうちのひとつで、
主に建設関係の日雇い労働者が集結してる場所。
とは言ってもここももう高齢化。
仕事できてる人は少ない。
そもそもここに入ってくる仕事自体が少ない。
もうまもなく消えていく町だそう。

圧倒的に単身男性が多い。
彼らは収入がある時あるいは生活保護を受給できている人は、
一泊1000円〜2000円の簡易宿泊所に泊まり生活する。
三畳の部屋、トイレ、シャワーは共同。空調は付いてる。
収入があれば。
食料も生活保護を受給できていればとりあえずは確保できる。

今まで、なぜホームレスになるのか分からなかった。
生活が困窮しているなら生活保護を受ければいいと思っていたし、
実際最近は保護申請が通りやすくなったという。今は。
つまり、つい最近までは「失業」を理由に生活保護は受けられなかったらしい。
そして路上生活者になる。

もう一つの理由は、「生活保護受給者=怠け者」と世間から言われることへの懸念。
そして労基法以下の水準で働いている人からのバッシングなども受ける。

制度的問題と、当事者の精神的問題。
それが最低所得者層を路上に追いやる。

まあでも何にせよ問題なのは国の企業の雇用形態なんだろうなと思う。
生活保護を受けなければ生活できないというのは、
結局は労働力とoutputが釣り合っていない。

【日雇い労働者】
建物の建設の際に“ハコ”を 作る段階においてだけ大量に必要とされる人員。建設が終われば、必要とされない。平均7〜10日の雇用契約。バブル崩壊後、労働力需要は激減。ゼネコンの下請けの末端。

全く持って産業中心の雇用形態。
被雇用者の生活の安定なんてもんは考えていない。
それでも仕事がどんどん舞い込んできた戦後復興〜バブル期まではよかったが、
その崩壊後一ヶ月以上働けないことなんてざらにあるという状態に。

最近舞い込んでくる話はもっぱら原発の修復作業。
危険な仕事のターゲットとされるのは身寄りのない単身男性。
彼らがいつどう被害を被っても訴えるものは周りにいない。

この話をしてくれた近藤さんは言っていた。
こういう事故が起きて、誰かが修復作業をしなければいけないのは分かる。
でも彼らのことを賞賛し美談で終わらせて、
またこの仕組み(原発や社会構造)を継続させていこうとする世間。
これではいけない。と。

 今日ただ炊き出しをするだけでなく、
そういうった構造的背景を聞けてよかった。
100%フラットな捉え方は出来ないと思うけど、
ここ最近不可解に思っていた社会構造がだいぶクリアになった。
ここからがスタート。


現在路上やドヤで生活している人たちが「社会から溢れたもの」として捉えられているだけではなく、
その人たちの生活を多くの人は知らず知らずのうちに前提として生活している。
寿に溢れてるような生活が無ければ成り立たない社会。
そういうものってきっと世界のどこにでもある。
でも、ここ日本にもあるんだよ。しらなかった。

少しでも変えたいよね。
そのための頭脳と知恵。


who saves you?
you save,,, who?



2012/02/03

upset

最近朝から夜まで学校にいることが多い。
時間割の都合上キャンパス拘束時間が長い。
週に3回くらい2時間の昼休みを過ごしてる。
大半は一人で過ごすから、結構勉強してて(するはめになって)、
なんかそれが余計に自分を焦らせてるような気がするなあー


中学や高校の時みたいに、部活バカでそれ以外見えない盲目的日々って以外と充実してるよね。
いろんな事に気づき始めると生きづらくなったりしてさ。
でもまたそこから何かに没頭すると最高なんだろうなあ。
昔の部活は半ば強制感だったけど、
もし今から何かに没頭してしまうとしたら、
結構本当に好きなことなんじゃないかな。
それくらい好きな事みつけたいね。


高校の部活引退してしばらくしたある日、
もし自分に時間もお金もあってなんでも好きな事してよくて、
そんな素敵な環境だったら、
自分は何をするだろう、何がしたいだろう、って考えて、
結果何もやりたいことがないって気づいた時に愕然としたんだよね。


それを考えたら、今はそれよりはだいぶ前に進んだのかもしれない。
それまではやりたい事の候補も選択肢もなかったけど、
今はその中でどれが一番やりたいかはわからないけど選択肢がいっぱいある。
ありすぎて困るくらい。


そうよね、ことはそう着々と早々と進んでいくものじゃない。
3年くらいかけてだいぶ自分も変わった、というか色がついた、と思うけど、
これからも色んな色に変わっていくよね。


毎日毎日焦りながら過ごしてもいいじゃない。
焦って何かに向かって走って、
結局違ったみち走って、戻って、また、、、
(今日の私みたいだ)
そうやって時を過ごしていくんだろうなあ。


他人に有無を言わせないくらい幸せになってみせなきゃね
この前久しぶりにあった現在絶賛フリーターの中学時代の友達と交わした言葉。